親父の威厳 毒吐き編

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zoom RSS 内村鑑三といふ人

<<   作成日時 : 2010/08/06 11:41   >>

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【正論】終戦から65年 文芸批評家 都留文科大学教授・新保祐司
産経ニュース2010.8.2 03:10

 ■欺瞞を脱し「本来の日本」再建を

 敗戦から65年目の夏を迎える。

 私が生まれたのは、昭和28年の5月で、サンフランシスコ講和条約により日本の主権が回復した昭和27年4月28日の1年後ということになる。

 だから、「占領下」のことは体験として知らない。しかし、昭和30年代初頭からの半世紀余りの時空間の変遷についても、その中で生きてきたにもかかわらず、何か不思議と実感がないのである。

 たしかに、東京オリンピックも見たし、大阪万博にも行った。オイルショックも体験したし、バブルの時代も知っている。しかし、私は、いつも日本である「かのよう」な日本に生きているという感じを抱いてきたのであった。

 ◆日本人の精神の宿命を超えて

 今、日本である「かのよう」な日本という少し変な言い方をしたが、これは明治の文豪・森鴎外の作品「かのように」から思いついたものである。

 この小説は、明治45年、鴎外が50歳のときに発表されたもので、鴎外その人の述懐としても重要な位置を占めているが、近代の日本、あるいは日本人の精神の宿命を示唆している問題作である。

 聡明(そうめい)な懐疑主義者として、鴎外はドイツの哲学者「ファイヒンゲル」の『かのようにの哲学』を参考にしながら、自由とか義務とか絶対とかは存在しないが、それらが存在する「かのように」考えなければ、人間の倫理は成りたたない、という。そうなると、社会は崩壊してしまうから、自由とか義務とか絶対とかがある「かのように」考えるというのである。

 近代日本における最高の宗教哲学者・波多野精一は、このような考え方を「自覚された虚偽の世界」「欺瞞(ぎまん)の態度」と批判したが、この「かのように」見なして生きる態度は、鴎外個人を超えて、近代の日本人の精神の底に潜んでいる。

 私は、戦後の日本に、このような「自覚された虚偽」「欺瞞の態度」を強く感じるのである。昭和27年4月28日に、日本は独立した。しかし、その後の日本は、自主独立の国家であろうか。独立した国家である「かのよう」な国家ではないか。

 「占領下」に現行憲法は作られた。独立後も、この憲法を日本人が作った憲法である「かのように」思い込もうとしている。

 このように根本のところで「かのよう」なものの「欺瞞」をしている国家は、結局国家である「かのよう」な国家であり、その中で生きている日本人も日本人である「かのような」国民にすぎなくなる。さらには、そういう国では、人間は生きている「かのよう」な人間になっていってしまうのではないか。今日、流行している文化は、そのような人間にふさわしいものである。

 今、必要なのは、この趨勢(すうせい)を逆転して日本である「かのよう」な日本を、本来の日本に立て直すことである。

 ◆「勇ましい高尚なる生涯」

 国家がそういう確固としたものに回復するのには、まず国民一人一人が、住民や市民、あるいは地球人といった虚(むな)しい存在から脱却して、本来の日本人という国民にならなければならない。

 そのための一つの道しるべとして、私は内村鑑三の『後世への最大遺物』を夏休みの読書として読むことをすすめたいと思う。これを一人でも多くの日本人が読み、何か一つでも行動に移していけば、日本人は、あるいは日本という国家は「かのよう」な存在であることから、本来の自主独立した存在へと脱却していくであろう。

 『後世への最大遺物』は、明治27年、鑑三が33歳のときに箱根で行った講演である。現在、岩波文庫に『デンマルク国の話』とともに一冊になっている。

 人間が遺(のこ)すものに、金や事業や思想がある。しかし、これらは何人にも遺すことができるものでもないし、また「最大遺物」でもない。鑑三は「それならば最大遺物とは何であるか。私が考えて見ますに人間が後世に遺す事の出来る、そうして是は誰にも遺す事の出来るところの遺物で利益ばかりあって害のない遺物である。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。是が本当の遺物ではないかと思う」と語っている。

 金、事業、思想といったものよりも「勇ましい高尚なる生涯」の方が「最大」なのだという逆説を分かっている日本人が、日本という国家を支えてきた国民であった。鑑三は、この講演を「我々は後世に遺すものは何にもなくても、我々に後世の人に是ぞと云うて覚えられるべきものは何にもなくとも、あの人は此の世の中に活(い)きて居る間は真面目(まじめ)なる生涯を送った人であると云われるだけの事を後世の人に遺したいと思います」と結んでいる。

 「勇ましい高尚なる生涯」を志す人間は、日本である「かのよう」な国家に生きていることに耐えることができない。今や、日本であることにしっかりと根差した本来の日本の再建にとりかかるべき秋(とき)である。(しんぽ ゆうじ)


まず、内村鑑三と聞けば、私は迷わず「代表的な日本人」を思い出す。
近江聖人と云われた日本陽明学の祖「中江藤樹」。
皆様もよくご存じの「二宮尊徳」「西郷隆盛」
大胆な改革を行い財政難を乗り越えた藩主「上杉鷹山」
弾圧にも負けず己の遺志を押し通した「日蓮」
を海外にというか基督教徒に誇れる人物たちとして発信した。

元々、基督教との接点は「少年を大志を抱け」で有名なクラーク博士がいた札幌農学校へいたため。
この時、同期に「武士道」を全世界へ発信した5千円札でおなじみの新渡戸稲造もいた。
新渡戸稲造は、聖書の中に日本人の所謂「武士道」を見出し、「我、世界の架け橋たらんと」
それを知ってもらうために記した。
内村鑑三も最終到達点は新渡戸稲造のそれと同じだったのではないか。

武士道=「勇ましい高尚なる生涯」として。

クラーク博士の「 “Boys be ambitious !”=少年よ大志を抱け」も大志=野望と解釈され長い間定着していたが、実際には上記講演の内容のもので、「野望」と云うのが間違った解釈だった。
(というか、他に意訳する適当なものがなかったのが実情だろうが。)

宗教をも超え、到達する心理は世界共通なのかもしれない。

ただ、今の日本には夢がない。

「夢がない=尊敬する人、なりたい人がいない」と云う事。

時代の寵児と持て囃され、表舞台から消えていった人間、ホリエモンとかこの間の木村剛とか見ていればわかるし、安易に英雄視するのもどうかと思う。まぁマスゴミのマインドコントロールもあるんだろうけどね。

じゃぁ尊敬できる人は?との問いかけで云えば人に背中を見せられる生き方をした人、内村鑑三の言葉を借りれば「勇ましい高尚なる生涯」を志す人間 = 武士道精神を持つ人ともいえる。
だからこそ、武士道のブームが再熱している。

もう一度、武士道精神を持った上で世界に立ち、日本を見つめ、自ら日本人であることを自覚する必要がある。
そして、そこから見えてくる問題に自問自答をしていき、修正していくしかない。

2010.8.9 修正・加筆

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2010/08/09 08:16

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